ただいま産業

2012年5月12日 (土)

中村さんと海竜

Kaidanwind

日本という国は、太古の昔は、そのほとんどが海の底であったのだそうだ。
だからそんな遠い昔を偲ばせる…例えば大地でゆったり木の葉を食む巨大な首長竜や肉食恐竜が見つかることはほとんどない。
地殻の隆起で出来上がった山々の太古の地層の中から見つかる化石は、陸のものよりもむしろ、海のものが圧倒的に多いのはそういうことだかららしい。

Mado ここ、北海道むかわ町穂別(旧穂別町)にも9,500万~7,000万年前の太古の地層が隆起していて、そこからは海竜モササウルスやティロサウルスの骨格の一部の化石も見つかっている。
このモササウルスは調査の結果、新種と判明して「ホベツアラキリュウ(愛称:ホッピー)」と名付けられて全身復元の模型がむかわ町立穂別博物館ロビーに展示されています。
その博物館の向かいには、さらに地球創生の太古から現在、そして未来をたどる「穂別地球体験館」があり、私たちの乗る地球という大きな乗物の成り立ちを数十分で知ることができます。

Kamoi

街並みは、太古を髣髴とさせる恐竜のモニュメントをたくさん見ることができる。
だからこの街は、まるで恐竜の時代から現在へひとっ跳びしてきたみたいなのです。
中間を大雑把に飛ばしてしまった…そんな気にもなってしまうのですが、先ほどの博物館の隣には、その気持ちに似つかわしくない大きな旧家が目に入ります。

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その建物は、穂別町(現むかわ町穂別)開拓の先駆者、中村平八郎さんの家で、大正10年から13年にかけて建築されました。

Hari 後に平八郎さんの長男・中村耕平さん(穂別村第7代村長・穂別町初代町長)が受け継いで、現在までに築80年を経過しています。

この立派な旧家もいつしか誰も住まない家になってしまったようですが、平成6年、耕平さんの奥さんが家を含む一帯の土地を町に寄贈しました。その時、すでに建物はかなり痛んでいました。でも、この建物は北海道開拓当時の「下見板張洋館住宅」の形を保っていること、大変骨太な造りで、造作に凝らない直線的な建物になっていること、内外部ともに広葉樹材を多用するなど材料の吟味や丁寧な施工がうかがうことができることから関係者の間で保存の議論が進み、文化庁の有形登文化財、第01-0034号の登録を受けて平成15年に現在地の町立博物館横に移築復元されました。

Irori 平屋建ての主屋を中核として、起り屋根(弓状に流れの中央部分が膨らんだ屋根)の玄関庇をもつ鉄板葺き屋根、片入母屋造り、切妻(屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根)造り2階建て。和風と洋風の二つのイメージが見て取れる建築物です。
解体工事の際に屋根裏から棟梁の直筆の署名とともに施工から竣工までの詳細が記された記録(手板)も発見されたそうです。現在と違って建物は、受け渡しの商品というよりも請負の芸術作品という色合いが濃かったように思えます。

この家の初代主、穂別町開拓の先駆者でもある中村平八郎さんは、新潟県上越市高田城下の下小町で問屋を営んでいましたが明治24年、石油資源の調査のために来道。現在の穂別において良質の石油を発見しました。
中村さんも化石(化石燃料)と無縁ではなかったということですね。
そして、同26年に移住。石油業を17年続けたあと(石油資源枯渇?)農業・木炭業に転向。そのかたわら村役場の総代人・村会議員・農会の評議員などの役職も務めていました。

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Niwa 長男の耕平さんは、明治31年に誕生。大正期に渡欧し、各地を視察・酪農業の研修ののち帰町。村の要職を経て昭和31年に第7代村長に就任しました。

当時の穂別村は財政破綻状態で村の建て直しに心血を注ぎ4期16年務めました。その間の昭和37年に町制施行により「穂別町」となる。

Dsc07107 パンフレットに載る移築改修前の中村家住宅母屋は外観は保っているものの鬱蒼とした林の中の不気味な屋敷という印象ですが、造りが堅牢なためか外観をしっかりと保っていて施工の確かさが伺えます。
太古から未来を綴る化石に関わる町の歴史と、そこから近代的なヒトの時代への受け継ぎを証言する中村家屋敷は、単に古の暮らしを彷彿とさせる器としての展示物ではなく、今も町民文化サークルのギャラリーとして現役で利用されているとのことです。

どんな町へいっても古の時を刻んできた旧家を見かけるものですが、官のものと違い民のものは、年月と風雪に痛めつけられて朽ちるままのものがとても多い。
郷土史的背景があっても安全面への配慮から「解体やむなし」として見慣れた街の色から消えていくことは少なくないものです。
昭和という時代も懐かしむ反面、その名残さえもどんどん淘汰されていく。
残されたノスタルジアな気持ちは、どこかで借りてきたように画一化された美化した思い出と混同されて泥団子みたいになっていく。
それでもその泥団子、コロコロコロコロしていると、元の色もわからないくらいにキレイに輝いていくものなのです。
その輝きをみていると、必死になってコロコロしていた苦労、リアルに通り過ぎてきた苦難なんてホントは他愛のないものなのかもしれません。
今「昭和」が輝くのは、そういう苦労から培われてきたからこそ輝いて見えるもの…

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そう 苦労も悲しみも涙も 時に磨かれてきたから 輝くものになるのです。
数え切れないくらい何度も行き来した床が輝くのも
そうして磨き上げたからなのでしょう。

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2010年9月12日 (日)

見通せる壁

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壁は空間を小分けするものだ。
そして社会を細分化していくものにも思える。

空間の分割は、そこに隣とは異質な空間を形成することを可能にする。

凍てつく夜に春を置き、酷暑の日向も軽くする
漆黒の夜を光で照らし 雲ひとつ無い青空の下、影を閉じ込める

土の壁 石の壁 レンガの壁 コンクリートの壁 鉄板の壁

壁は塗り固めて具象化した構造物だけではなく
個々の心の中にも壁ができる。

何者も通さぬ壁 選んだものだけを通す壁
自分を幽閉するための壁 本当の自分を晒さないための壁

比喩的にあらわされる壁は
信念の強さと自分の弱さと、両極端なものになる。
とにかく壁は、中のものか外のもののいずれかを守ることに代わりはないようだ。

ここにひとつの壁がある。
かつて産炭地として賑わった町の追憶の壁
大きな鉱床のあちこちに開けられた穴の中、壁が築かれ崩した壁を地上に掘りあげる。
地上にも多くの壁を持つ施設が作られて、掘り出した壁を分類して壁の中に格納して運ぶ。

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壁はまた壁を運び、新しい壁を築く
小さな壁の群れが石畳のように地上を埋めていく
壁は時代を作り、歴史を壁のごとく積み上げていった。

高く高くなった壁、やがてその高さゆえに崩れるがごとく全てを丸め込んで小さくなった。
具象化した壁はその意義を失い、新たな時代の壁を築くために開放され、あるいは古の壁として緑の壁の奥深く幽閉される。

失われた壁は、全て新しい壁に取って代わられたわけではなく、そのなかで暮らした人々の記憶を固定する器として生き続けた。

記憶を守る壁 想い出を格納する壁 悪夢を隔離する壁

失った壁 手に入れた壁
己を失った壁がゲシュタルト崩壊していく…

この壁は記憶の蓋ではない。
元は四角四面の壁を持つ選炭施設の壁の1枚だったそうだ。
町の歴史を振り返る人にとってこの壁は記憶の壁を開くための白昼幻灯機のスクリーンなのかもしれない。

そう、劇場のスクリーンも壁だ。
壁は、その向こうにある何かを見えなくするものではなく、むしろその向こうにあるものを実感させるものに他ならない。

きっとそうなんだと思う。

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北海道東の採炭の歴史は北海道内でも古く「開拓使事業報告」という記録によると、安政3年、幕府が初めて獺津内(オソツナイ)の石炭をほりはじめたのが始まりとされる。
当時はまだ「石炭」という言葉がなく、「媒炭(ばいたん)」と書かれていたそうだ。

本格的に石炭が掘られるようになるのは安政4年、箱館(函館)に来る外国船の要望に応じるためであり、また箱館奉行も鉱物の精製のために石炭による燃料確保を求めていたからである。

やがて採炭地が岩内の茅沼へ移され、白糠の採炭は元治元年(1864)に中止されることとなる。
この幕府の採炭はみずから消費するのではなく流通商品として売買されるものであった。実際の炭田の開発は明治20年、硫黄の製錬の燃料、輸送の汽車・汽船の動力源として産業資本により進められた。

新白糠炭鉱は、昭和21年、再び石炭資源が脚光を浴び、現在の通称『石炭岬(実際には「石炭崎」と呼ぶ)』の鉱脈を採炭するため営業をはじめ、昭和39年まで採炭が続けられた。

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現在、白糠町で産炭地を記念して操業時の選炭場の壁に碑板を埋め込んだ『新白糠炭鉱創操業地記念碑』(平成8年)を建立した。

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