森の中の道は右へ左へ そして上に下にと激しく身をよじっていく。
時折、タイヤの跳ね上げた石が車の底にボコンボコンと当たるので、さすがに義江さんも運転に慎重になっているみたいだ。
「あのーっちょっと話してもいいですか?」
「えっ?ええ…かまわないよ」
「なんだか…すごい道ですね」
空の上からいつも見る大地は、高い山もウネウネと体を横たえる川も木立の連なりも、みんな平らに見えているから、こんな道を走る車に乗っていると地震の中にいるみたいで怖くなってくる…
「うん。本来、営林署の作業林道だからね。普通の道みたいに整備が行きとどいてるわけじゃないからね。でも、前はここもシーズンに開いていて誰でもタウシュベツの橋まで見に行けたんだよ。“幻の橋”の名前が広まってからたくさんの人が通ったけど、事故もあったものだから許可をとってゲートの鍵を借りないと通行できなくなったのよ。そのかわり橋の見える湖の対岸に展望台が作られてるの」
「やっぱり、普通の車じゃ難しい道なんですか?」
「いや…私は、ここへ来るのは、始めてだから…タウシュベツを見に行くのも始めて…」
「えっ?」
初めて?この辺りの橋のことに詳しいのに?
それを聞くとハンドルを握る義江さんの横顔は、なんだか不安そうに運転しているように見える。訳を聞きかけたけど、いけないような気がして言葉を飲み込んでしまった。
「4キロって聞いてたけど、こういう道だと長く感じるね」
「はい…」
先に待ちうけている幻の橋にロマンチックなことを感じていたのに、言いずらい何か不安な気持ちが湧き上がってきた。
こんな奥地に機関車が走っていた線路が本当にあったんだろうか…
「その橋が使われていた頃は“幻の橋”と呼ばれるなんて思われてなかったんでしょうね」
「…」
あれ?聞こえてない?
心がずーっと奥に続く道に奪われているみたい…
と、いうよりも運転していることも忘れて心がどこか他所へ行ってしまったようでもある…
私もなんだか重い気持ちがしてきて黙って脇の森を見ていた。
小さな木や大きな木が入り乱れる中に時折、倒れたり根元から折れて朽ちかけた大木も見える。鮮やかな色の苔がむして、妖精が出てきそうな雰囲気がする。
幽霊の自分が妖精の話なんて…変だな…
ミラーに映る後ろの景色に砂利道から舞い上がった砂埃が、怪物が追いかけてくるみたいに見えた。
「あっ!ここだ!たぶん…」
義江さんの声にハッと我にかえる。
しばらく想いにふけっていたことが霧のように消えてしまった。
さっきまでの木々が覆いかぶさってきていた道は急に開けた場所に変わり、空がすぐそこまで降りていた。
もうすぐ“幻の橋”を見ることが出来るんだと思うとドキドキしてくる。
「ここから歩くんですか?」
「ダメ…」
「はい?」
「ごめん!…私、やっぱり行けない…」
「えっ?どうしたんですか?ここまで来たのに…義江さんも始めてなんでしょ?」
「うん…そうなんだけど…私は行っちゃいけないんだと思う。まだ“幻の橋”には…。だから行ってきて。そこの木立の間の道を行くと、すぐ橋は見えるはずだから…」
横へ目をやると、ありがたくないことの書かれた看板が見えた…
「あんなのが目に入って『行ってこい!』って私も酷だよね…」
「何か…訳があるんですか…?」
「うん…」
─あれは、高校2年の冬、ぬかびら源泉峡発のバスは泉翠橋に差し掛かかる。学校へ通う道をもう何度走っただろう。
利用客もまばらな路線バスは、清水谷に差し掛かるあたりには、いつも私と温泉宿のひとり息子の翔平のふたりっきりなことも多かった。
温泉街からいくつかのトンネルを越えて、山が両側から道側へと狭まってくるあたりに泉翠橋があり、そこからすぐ脇に平行に並ぶ古いアーチ橋が見える。

「旧国鉄士幌線アーチ橋梁群」の礎にもなった始めの橋「第三音更川橋梁」。ウチの車からだと見えないけれど通学に乗るこのバスからだとアーチのカーブまで見ることができる。
私が父さんと糠平に越してきたときは、旧道の古い橋だと思っていたけど、それにしては幅が狭いし、ネットで調べると「NPO法人ひがし大雪アーチ橋友の会」っていうところをに詳しく載っていて、この辺りを走ってた鉄路の遺構なんだと知った。
「ねぇ?あの橋渡ったことある?」
「あぁっ?ねェーよ!俺が生まれるズッと前から廃線になってんだし…」
横で半分居眠りの翔平は、長い道のりのバス通学にホトホトうんざりしているらしい。
私は、この時間が好きだ。
乗る人もまばらで、私たち以外の乗客がいないこともしばしば。
そんな大きなバスの中でふたり並んで座っている。
「どうして、ここにアーチ橋は、とり残されたのかなぁ…」
「あれ、一番古いし、“登録有形文化財”だかになってるんだってさ。ちょっと下流に元小屋ダムがあるから解体やったら影響するんじゃないか?今じゃバイカーとかいっぱい来るから観光にひと役買ってるってことだろけど」
学校へ向かう道すがらのアーチ橋のほかに私たちの住む糠平の街のキャンプ場から近い場所にも“糠平川橋梁”がある。
その先の三国峠にも十勝三股まで伸びた鉄路の途中にいくつかの橋が残されている。
父さんと幌加の温泉へ向かう途中にも大きいのがあったなぁ…たしか“第5音更川橋梁”とか言った。その手前の林道を湖の方へ行くと有名な幻の橋“タウシュベツ川橋梁”…

「ねぇー、翔平?タウシュベツの橋は、行ったことある?」
「あるさー。何回もー」
「で!どうなのさ
」
「どうって…カメラ持った奴とかカップルとか…いつ行っても大勢いるよ」
「えーっいいなぁーっ。私1回もない!」
「あったろさ!五の沢からワカサギ釣り行った時に」
「えーっあんな小っちゃく見えるのなんか行ったうちに入んないよ!」
「行ってどうすんのさ。ボロボロだよ。なんであんなのみんな見に行くのかな?」
「橋ってさぁ、こう何ていうか、別々のところが出会う場所じゃん」
「うん…?」
「そうなのさ!でさぁ!その橋が現れたり消えたりするんだから、これはもう奇跡の橋っしょ?」
「ダムが冬に水、抜いてるだけだって!」
「ねーっ!暖かくなったら行こーっ!自転車で!」
「アホか?自転車って…遠すぎるってよ!林道通るのにさ。無理無理!俺でも無理っぽい!」
「頑張る
」
「義江の親父に乗せてってもらえばいいじゃんよ!」
「ふたりだけで行くから意味があるんじゃん
」
「あーっ…あんまり大声出さないでね。安全運行中ですから!」
バスの運転手さんが私の大声によほど溜まりかねて注意された。
「ハハハ…やばいヤバイ!」
「ヤバイじゃねーよ!俺は旅館の息子だって面、割れてんだぞ!」
「じゃ連れてってよ!お願い!でないとまた騒ぐ
」
「無茶いうなよ…わかった!免許とったら一緒に行こ。それでいいだろ?」
「いいよ!それまで私、ぜったいタウシュベツへ行かない!初体験は翔平とって決めるから」
「それ、どういう意味?」
「さーねー」
「いやーっムカつくなぁ…」
私にとってそれは、真剣な約束だった。
翔平はどの程度考えていたかはわからないけれど…
春、卒業を控えた3年生の私たちは、橋の話はしなくなっていた。
翔平は、前から聞いてた札幌の専門学校へ行くことになり、私は父のコネで地元の温泉ホテルで雇ってもらえることに…
離れ離れになってもしばらく手紙とか電話のやり取りはしてた。
けど…
行楽シーズンに忙しさが倍増するホテル業は目が回る。特にスタッフの少ない今のところは。私も連絡が億劫になり、そして、魔が開いていくと気が引けるようになっていった。
もう何年もたってしまった…翔平はどうしてるだろう…
たまに寄る翔平の家(旅館)で聞いた話では、札幌で就職したらしく、もうずーっと帰省もしていないようだった…。
「旅館経営も大変だからねぇ…この不景気の世の中、あの子に旅館を継がせるのもどうかと思うよ…」
近くにいながら橋は、どんどん遠い存在になっていった…
ホテル業務でお客様から橋のことを聞かれたり、北海道遺産にタウシュベツ川橋梁が認定されると、ロビーにポスターが貼られるようになったことも避けられない重荷になっていた。
でも、負けちゃいけないと休日には思い出を辿るように橋(タウシュベツを除いて)を見にいくようになる。今は、使うあても無い写真を撮り歩くようになった。
あえて橋に夢中になることで孤独感みたいなのをごまかせたんじゃないかと思う…
「そうだったんですか…」
「もう、ふんぎれると思ったんだけど…ダメだな私…」
「電話してみたらどうですか?」
「いや!いまさらできないよ!何年も経っちゃったし…」
「でも…まだ、あきらめちゃダメですよ!だから今まで“幻の橋”へ行かなかったんでしょ?」
「うん…」
「もう、帰りましょう!」
「エッ?」
「橋は、また現れるんでしょ?いなくなるわけじゃないし…きっといつか見に来れますよ」
「うん…そうだね!」
木立が後ろへと逃げていくのを眺めながら思い出していた。私のあの夏の日のこと…

私がまだ、引きこもりの幽霊だったあのころ。
自分が死んじゃったことも知らないで外へ出て人に悲鳴を上げられたのが、あまりにもショックで、自分がどういうことになったのかわかってきた。
取り返しのつかない間違い 戻らない時間 ひとりぼっちの部屋でハッカ飴を舐めながら同じ本を何度も読んでいた毎日。
そんなある日、隣にカズ君が越してきて何かが変わった。そして押入れの穴越しの付き合いになった。
不思議なことにカズ君は私の声も聞こえたし、飴を差し出した私の手を幽霊とは思わなかったんだ。

会いたい! 会って顔を見たい!
この腕を出せるくらいの穴から潜り込むのは幽霊の私に簡単だけど、そうじゃなく人間として会ってみたい。
そのチャンスは意外と早く来て、明るい月夜の夜に出会い、月明かりの海辺を自転車に乗せてもらって走ってきた。
カズ君は私のことを少しも怪しいと思わなかったし、むしろ私が幽霊とも思わなかったんだろう。それがどうしてなのか私にはわからない…
自転車の後ろでカズ君の背中にしがみついたその夜、私は恋に堕ちていた。幽霊の私がね…
その楽しい日はあっという間に過ぎて、カズ君はお父さんの都合でまた引っ越すことに。
その日、さよならが言えなくて部屋でジッとして留守のフリをしていた。
「いつかきっと会いに来るよ」
私がいたのを知ってか知らずか、その言葉を残していった…
私は…私はたぶん、その言葉を信じてるんだと思うよ。
でもさ…その日が待ちどおしいような、怖いような…
どこまでも青くて高い空をいく風の中にいるときでさえ、ふと考える…
「ナギサ…?!」
「あ…はいっ?」
「何度も呼んだんだけど…どうしたの?」
「すいません!ちょっと考え事してて…」
「せっかくだから他のアーチのところに来たんだけど…」
あれ…戻る道の記憶がない…
いつの間にか舗装の大きな道に出てて、長い橋の上にいた。
「ほら、そこ」
こっちの橋と並ぶように古ぼけてはいるけど、足長の大きなアーチ橋が谷間を悠々と跨いでいた。両端は藪の中へ埋もれていっているけれど長いのは想像できる。
「これはずいぶん長い橋ですねーっ」
「109mあるんだって。タウシュベツのほうが130mで一番長いんだけど」
♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪…
「はい! 鱒見です。 はい、はい… そうですか…いえ、わりと近くですけど…。そうですね。30分ほどで、はい。了解しました」
携帯電話をパタン!と折りたたんだ義江さんは、大きなため息をついた…
「ごめん!急にヘルプ入っちゃった!」
「仕事ですか?」
「うん…よくあるんだけどね。こういうこと…」
忙しいんだなぁ…
私は、大人の世界を生きたことはなかったし、今も昼と夜の違い以外、時間の感覚ってないし… もっとも左腕のコロンがいるから時間というものはわかっているけど、時間に追われるような過ごし方はしたことがないから。
でも、一生懸命仕事に打ち込む生き方もしてみたかったと思う。
いまさら望んでも、それは仕方のないことだけど…
「ここでいいの?旅館まで送るよ」
「いいえーっ!
もう少し散歩してきます。お仕事頑張ってください」
「もう…明日には発っちゃうんだっけ?」
「はい…またいつか来ますよ」
「良かったらアドレス教えて」
アドレス?…あーっそうか携帯電話のことか…
まさか幽霊だから携帯持ってないともいえないなぁ…
「すいません…私、持ってきてないんです…」
「そっか…ひとり旅で携帯もうっとおしいしね」
「うん、でも大丈夫」
「じゃ、またいつか…」
「はい、ありがとうございます。楽しかったです」
義江さんの車はブーンと走っていった。
後ろのガラス越しに手を振る姿が見えて私も手を振り返す。
気がつくと爪の色が緑に変わりかけていた。
ちょうど、この体の時間切れ。
「
ナギサーン…橋ば見たいかったでよ…ずーっと静かば守りいたに…」
あっ!コロンのこと忘れてた…
「いや…
あの場合仕方ないでしょ?」
「見たきたいでれっすーっ」
「えーっ見たら願いが叶わなくなっちゃうでしょーっ」
「そな橋はカミサマならすか?そなん、なお行かんばならすよ?義江さんだらの願いさ伝えにん」
「…でもー」

「ナギサンひと飛びにゃすし、すっと行けるりよ」
「うーん…わかったよーっ…」
確かに私がその橋に願掛けしてるわけじゃないし
橋が願いを聞けるなら会っておいたほうがいいかな…
時間切れの体を解き放って風に乗った。空の風は、不安定だったので湖面を撫でるように走る風に乗り換えて湖をさかのぼって行く。
ボーッ
あれ?どこか遠くから、また変な楽器みたいな音が…
(つづく)
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