ぼっちの凸
北海道帯広市 むしろ十勝と言ったほうが北海道外の方には通じるようですが、十勝の中心都市です。
この帯広市の西部に大きな植樹林と運動施設の広がる『帯広の森』がある。
かつては、市郊外と同じく畑作風景の広がる土地でしたが、数十年の時を経て現在の形になりました。
「帯広の森」の構想は、第五代市長の吉村氏が提唱。昭和34年に策定した市総合計画のなかでは、グリーンベルト的な考えが包含されていました。
昭和44年、市長がオーストリアを訪問し、そこで『ウィーンの森』に出会ったことから「帯広の森」の構想が具体化する。広大なウィーンの森とそれに共生するウィーン市民に大きな感銘を受け、昭和45年に帯広市第2期総合計画策定審議会を発足させ、「帯広の森」構想を発表しました。 そして、昭和46年4月に策定された第2期帯広市総合計画において、「森」はまちづくりの主要な施策として明確に決定されました。その後、市議会での激しい論争、市民の気運の高まりなどを経て、事業がスタートしました。
現在の形になった森は面積406.5ヘクタール、幅が約550メートル、延長は11キロメートルの規模で、北部を流れる十勝川や東部を流れる札内川と連携して市街地を包み込むように配置され、憩いの場、学習の場、交流の場、スポーツの場などとして、多くの市民に幅広く利用されています。
昭和50年から市民植樹祭を開催し、平成16年まで30回、14万8千人が参加で23万本を植樹、平成3年からは育樹祭も開催、平成17年までに15回、のべ1万3千人が参加。
初期の植樹林は、すでに大きく成長して、まさに森にふさわしい様相になりました。
林の中に設けられた遊歩道は、夏場のウオーキングや犬の散歩、冬は、トライアスロンスキー等で体力づくりの人たちが耐えません。
木漏れ日を浴びながら歩いていくと、時折バラバラとヘリコプターの音がしてくる。
森の切れる向こうには自衛隊の飛行場があるからです。
この飛行場、以前は市の空港でしたが、歴史を遡ると日本軍の飛行場であったそうです。
現在は森となった植林地ですが、ひと昔前は、まだ畑で昭和56年頃の空中写真を見ると一帯は、まだパッチワークのような景色の畑作地。植林は始まっていた頃とはいっても森といえる部分は乏しい。
戦後に飛行場周辺の土地は、民間に払い下げられ、1974年頃、森の構想で買い上げられるまで実りの大地となっていた。
そこにこの『掩体壕(えんたいごう)』がある。戦時中は全部で46基あったという。
掩体壕は、主に航空機(戦闘機)を敵の攻撃から守るための格納庫で、通常は、コンクリート製のかまぼこ型をしており、内部に航空機を収納する。簡易なものは爆風・破片除けの土堤のみで、天井がないものもある。
ここの壕は小型のもので、翼を広げた飛行機がすっぽり入る凸型をしている。
十勝管内で掩体壕と呼ばれるものはいくつか残っていますが、飛行機ではなく軍事物資格納用に高台下に掘られた洞穴のようなものがほとんどで、飛行機用のトーチカを思わせる構造物は始めて見た。
この土地を所有していた方は、入植当初、この壕に木材で屋根を取り付けて住み、住居を建てた後も壕を倉庫として利用し続けて取り壊さなかったそうだ。
実際、46基あったものは、耕作のジャマになるためにほとんどが破壊された。
当時は屋根の跡と思われる鉄骨があったほか、中央部に車輪が通った跡もあり、実際に飛行機が格納されていたらしい。
-17℃を下回る今シーズンの最低気温の朝、掩体壕を見に来た。
脇の幹線道路を通る通勤の車から壕は明らかに視界に入るはずだけど誰も目もくれない。
広い空と広い大地。そこにまんべんなく降り積もる雪。
そして憩いの森。
のんびりできそうな要素は充分にそろっていても、人々はとても忙しいのだ。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
掩体壕の記事、大変参考になりました!
先日根室のを見てきましたが、平たいドーム型でした。
計根別もそのタイプですよね。
帯広の森にあるのは凸型なんですね~
まだ公開しているのなら是非見に行きたいと思いました!
投稿: F090/Shige | 2012年10月22日 (月) 21時56分