見通せる壁
壁は空間を小分けするものだ。
そして社会を細分化していくものにも思える。
空間の分割は、そこに隣とは異質な空間を形成することを可能にする。
凍てつく夜に春を置き、酷暑の日向も軽くする
漆黒の夜を光で照らし 雲ひとつ無い青空の下、影を閉じ込める
土の壁 石の壁 レンガの壁 コンクリートの壁 鉄板の壁
壁は塗り固めて具象化した構造物だけではなく
個々の心の中にも壁ができる。
何者も通さぬ壁 選んだものだけを通す壁
自分を幽閉するための壁 本当の自分を晒さないための壁
比喩的にあらわされる壁は
信念の強さと自分の弱さと、両極端なものになる。
とにかく壁は、中のものか外のもののいずれかを守ることに代わりはないようだ。
ここにひとつの壁がある。
かつて産炭地として賑わった町の追憶の壁
大きな鉱床のあちこちに開けられた穴の中、壁が築かれ崩した壁を地上に掘りあげる。
地上にも多くの壁を持つ施設が作られて、掘り出した壁を分類して壁の中に格納して運ぶ。
壁はまた壁を運び、新しい壁を築く
小さな壁の群れが石畳のように地上を埋めていく
壁は時代を作り、歴史を壁のごとく積み上げていった。
高く高くなった壁、やがてその高さゆえに崩れるがごとく全てを丸め込んで小さくなった。
具象化した壁はその意義を失い、新たな時代の壁を築くために開放され、あるいは古の壁として緑の壁の奥深く幽閉される。
失われた壁は、全て新しい壁に取って代わられたわけではなく、そのなかで暮らした人々の記憶を固定する器として生き続けた。
記憶を守る壁 想い出を格納する壁 悪夢を隔離する壁
失った壁 手に入れた壁
己を失った壁がゲシュタルト崩壊していく…
この壁は記憶の蓋ではない。
元は四角四面の壁を持つ選炭施設の壁の1枚だったそうだ。
町の歴史を振り返る人にとってこの壁は記憶の壁を開くための白昼幻灯機のスクリーンなのかもしれない。
そう、劇場のスクリーンも壁だ。
壁は、その向こうにある何かを見えなくするものではなく、むしろその向こうにあるものを実感させるものに他ならない。
きっとそうなんだと思う。
北海道東の採炭の歴史は北海道内でも古く「開拓使事業報告」という記録によると、安政3年、幕府が初めて獺津内(オソツナイ)の石炭をほりはじめたのが始まりとされる。
当時はまだ「石炭」という言葉がなく、「媒炭(ばいたん)」と書かれていたそうだ。
本格的に石炭が掘られるようになるのは安政4年、箱館(函館)に来る外国船の要望に応じるためであり、また箱館奉行も鉱物の精製のために石炭による燃料確保を求めていたからである。
やがて採炭地が岩内の茅沼へ移され、白糠の採炭は元治元年(1864)に中止されることとなる。
この幕府の採炭はみずから消費するのではなく流通商品として売買されるものであった。実際の炭田の開発は明治20年、硫黄の製錬の燃料、輸送の汽車・汽船の動力源として産業資本により進められた。
新白糠炭鉱は、昭和21年、再び石炭資源が脚光を浴び、現在の通称『石炭岬(実際には「石炭崎」と呼ぶ)』の鉱脈を採炭するため営業をはじめ、昭和39年まで採炭が続けられた。
現在、白糠町で産炭地を記念して操業時の選炭場の壁に碑板を埋め込んだ『新白糠炭鉱創操業地記念碑』(平成8年)を建立した。
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